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オーストリア代表の歴史

オーストリア代表チームの誕生、そして第1時世界大戦(~1918年)

オーストリア代表チームの歴史上初となる公式戦が行われたのは、ハプスブルク家が統治していたオーストリア・ハンガリー帝国時代末期の1902年10月12日のこと。オーストリアはウィーンでハンガリー代表と対戦し、5‐0で勝利を収めた。ちなみにこの国際試合はイギリスの国々(イングランド、ウェールズ、スコットランド等)が行っていたイギリス勢同士の「国際試合」を除けば、世界で初の公式国際試合であった。

初出場を果たした国際大会は1912年に開催された夏季オリンピック・ストックホルム大会。ドイツ帝国(5‐1)、ノルウェー王国(1‐0)、イタリア王国(5‐1)を相手に勝利を収め、初出場でありながら6位という好結果を残す。

第1次世界大戦中は、連合国側のイングランドやフランス、ロシア等とは対戦ができなかったため、定期的にスイスやハンガリーとの国際試合を行っていた。


「ヴンダーチーム」の誕生、UEFAヨーロッパ・ネーションズカップ優勝、第1黄金時代(1918年~1938年)

1911年にヨーロッパ大陸で最も歴史のあるプロフェッショナル・サッカーリーグであるオーストリア・ブンデスリーガが創設され、1927年より開催されるようになったクラブ国際大会の「ミトローパ・カップ」(UEFAチャンピオンズリーグの前身)でもオーストリアのチームが幾度も優勝を飾るなど国際舞台でも好結果をコンスタントに残していた。

「ヨーロッパ最高峰リーグ」として高い評価を得ていたオーストリアでは、代表チームの人気も非常に高く、当時オーストリアにあった収容8万人のスタジアムがオーストリア代表戦では毎回満員になっていた。

そして、当時オーストリア・サッカー協会の会長でもあったフーゴ・マイスルの提案で、ヨーロッパの各国代表チームが競い合うUEFAヨーロッパ・ネーションズカップ(UEFAヨーロッパ選手権の前身)が1927年から行われるようになると、オーストリア代表は第2回大会で優勝、第1回大会と第3回大会では準優勝を飾るなど優れた結果を残し、名実と共にヨーロッパの最強チームの1つとなった。

1931年には約60,000人の観客が見守る中、当時それまでは一度もヨーロッパ大陸で敗戦を喫したことがなかったスコットランドを、マティアス・シンデラーやルドルフ・ヒデンを中心とするオーストリア代表が5‐0で一蹴し、オーストリア代表の強さを証明した。

またこのスコットランド戦が今でも伝説となっている「ヴンダーチーム」(Wunderteam、奇跡のチーム)が誕生した試合とされている。
そして1931年5月から1934年6月までの3年間で行われた30の国際公式試合で21勝6分3敗という見事な結果を残し、ドイツ(6‐0)、フランス(4‐0)、スイス(8‐1)、イタリア(2‐1)、ベルギー(6‐1)、そして当時オーストリアと同じく世界最強代表チームと言われたハンガリー(8‐2)を破るなど、「ヴンダーチーム」はオーストリア代表の第1黄金時代を作り上げた。


1934年FIFAワールドカップ・イタリア大会と「ムッソリーニによる主審買収事件」による準決勝での敗戦

1934年FIFAワールドカップ・イタリア大会は、当時のイタリアの独裁者であったベニート・ムッソリーニが極めてファシストらしいやり方で大会を演出、イタリアを八百長等により優勝させた大会として知られているが、最もこの被害を受けたのがオーストリアであった。

マティアス・シンデラーを中心とするオーストリアの「ヴンダーチーム」はワールドカップ優勝の最有力候補と高い評価を得ていたが、大会直前に行われた試合等で怪我人が続出。「ヴンダーチーム」のスタメンのうち7人が大会不参加となった。

それでもオーストリアは準決勝進出を果たすが、当時ムッソリーニ率いるファシズムが浸透していた開催国イタリアとの対戦になり、現在まで語られている「ムッソリーニによる主審買収事件」により0-1で敗れた。

(数年後にエクリンド主審自らがムッソリーニに買収され、イタリアを勝利に導いたことを証言する)

この事件では準決勝の主審であったスウェーデン出身のエクリンドが、前半18分にゴール前でボールをキャッチしたオーストリア代表のGKを、イタリアの選手4人がラグビーかのようにタックルし、ボールを持ったままのGKをそのままゴール内に押し込んだ行為を正式にイタリアの得点として認める。通常ならばノーゴールとなるだけではなく、イタリア代表選手に退場が言い渡されるはずであったが、エクリンド主審はファールの判定すらしなかった。

また、試合終了直前にはオーストリアの選手のセンターリングをエクリンド主審が自らヘディングでクリアーするなど、オーストリアの得点チャンスを「積極的に」妨害した。しかしムッソリーニの影響力に逆らえなかったFIFAも黙認するしかなかった。

3位決定戦ではナチス・ドイツ帝国代表と対戦。しかし中心選手であったシンデラーは、準決勝でイタリアのルイス・モンティ(元々はアルゼンチン国籍であったが、ワールドカップのためにムッソリーニがイタリア国籍に帰化させた選手の1人)にファールまがいのタックルから怪我を負わされ、チームも2-3で敗戦し、ワールドカップ4位という当時としては非常に残念な結果で大会を終えた。

まだ「ムッソリーニによる主審買収事件」について知らされていなかったオーストリア国民は、「『ヴンダーチーム』(Wunderteam、奇跡のチーム)から『プルンダーチーム』(Plunderteam、古着のチーム)になった」、とワールドカップ4位と言う悪結果にオーストリア代表を酷評した。

オーストリア・アマチュア代表チーム、夏季オリンピック・ベルリン大会で銀メダルを獲得

20世紀の初めから既に正式なプロサッカーがスタートしたオーストリアでは、ナチス・ドイツ大帝国に併合される1938年までプロ選手からなるA代表とは別にアマチュア代表チームを形成していた。

特にこのアマチュア代表が国際的に高い評価を得るようになったのは、1936年夏季オリンピック・ベルリン大会である。この大会ではプロサッカー選手の参加をIOC(世界オリンピック委員会)が禁止していた為、既にプロサッカー選手として生計を立てていた多くのオーストリアのトッププレーヤーがオリンピックに参加できなかった。

そこでオーストリアはアマチュア代表チームをこのオリンピックに参加させた。いわゆる「プロになれなかった3流選手の集まり」であったため、当初オーストリアのメディアや国民から酷評されたが、見事決勝戦まで勝ち進んだ。そして決勝戦では惜しくも1点差で敗れた(スコアは1‐2)。

しかし、オリンピック銀メダル獲得という見事な結果を残し、当時のオーストリア・サッカーのレベルの高さを証明した。

ナチス・ドイツ帝国による併合、そして1938年FIFAワールドカップ・フランス大会(1938年~1945年)

1938年FIFAワールドカップ・フランス大会では、オーストリアはイタリアと共に最有力優勝候補として高く評価されていたが、1938年3月12日にオーストリアはナチス・ドイツ帝国により併合され、オーストリア代表、そしてオーストリアという国家自体が一時的に消滅した。

ナチスはドイツ大帝国代表チームの一員としての試合出場を「元オーストリア代表選手」に強要するが、主力選手であったマティアス・シンデラーやヴァルター・ナウシュ等はドイツ大帝国代表からの招聘を生涯断り続け、またその他の多くの「元オーストリア代表選手」はフランスやイスラエルに逃亡した。

最終的には13人のドイツ人と9人のオーストリア人からなるドイツ大帝国代表チームが強制的に形成されたものの、元々オーストリア(技術を重視したショートパスをつなぐコンビネーションサッカー)とドイツ(体力とロングパスをベースとしたサッカー)は全く異なるサッカーを実践していた。

その上国家併合から大会までは僅か3ヶ月と非常に短く、当時ドイツ大帝国代表チームの代表監督であったゼップ・ヘルベルガーも1つのチームにまとめ上げることが出来なかった。

しかも招集されたオーストリア出身の選手のモチベーションは非常に低く、ドイツ大帝国代表は初戦で敗退してしまった。

戦後、第2黄金時代の始まり、そして1954年FIFAワールドカップ・スイス大会

第2次世界大戦後に復活したオーストリア代表は1945年12月にフランスと対戦。FIFAのジュール・リメ会長、そして6万人以上の観客が見守る中、オーストリアが4‐1で勝利を収め、第2黄金時代の幕開けを迎えた。

1951年にはそれまでヨーロッパ大陸では圧倒的な強さを誇っていたスコットランド代表に勝利するなど、ヨーロッパの国々を相手に次々と勝利を収め、ヴァルター・ゼーマン、ゲルハルド・ハナッピ、そして「世界最優秀選手」に選ばれたエルンスト・オツヴィルク等を中心とした新生オーストリア代表は「ヴンダーチームの再来」と高い評価を受ける。
また、多くのオーストリア代表選手がコンスタントにFIFAの世界選抜に選抜されるようになった。

1950年FIFAワールドカップ・ブラジル大会では、ワールドクラスの選手を多く抱えていたのにも関わらず、オーストリア・サッカー協会の財政問題から本大会出場を辞退。そのため1954年のFIFAワールドカップ・スイス大会へのオーストリア国民の期待が高まった。

オーストリアは予選でポルトガルを9‐1で破り、1954年FIFAワールドカップ・スイス本大会に出場。

エドゥアルド・フリューヴィルト監督率いるオーストリア代表は前ワールドカップ大会(1950年、ブラジル大会)で準優勝したチェコスロバキアを5‐0で破るなど好結果を残し、グループリーグを無失点で通過。

決勝トーナメントでは開催国スイスを相手に歴史に残る大逆転劇(0‐3から7‐5で勝利、FIFAワールドカップ本大会での歴史上最多得点試合)を演じ、準決勝へ進出。
しかしこの大逆転劇で体力を消耗したオーストリアは、後に優勝を飾る西ドイツを相手にPKからの2失点などもあり敗れる。
しかし3位決定戦では前ワールドカップ大会(1950年、ブラジル大会)の王者ウルグアイを3‐1で破りFIFAワールドカップ本大会で3位という結果を残した。

準決勝での敗戦直後は「通常ならばオーストリアにかなうはずがない西ドイツ」(当時のメディア報道)に敗戦したオーストリア代表は強く批判されたが、3位決定戦で前大会の王者を破ったことにより世間の評価は一転。オーストリア代表の全選手が国民の英雄となった。

第2黄金時代、そして1962年FIFAワールドカップ・チリ大会での終焉

FIFAワールドカップ予選や国際親善試合で優れた結果を残し、オーストリア代表の第2黄金時代に多くの観客が酔いしれた。ホーム戦では8万人以上の観客が集まることも珍しくなかった。

1948年から1960年まで2度開催されたUEFAヨーロッパ・ネーションズカップ(UEFAヨーロッパ選手権の前身)では両大会で共に3位という好結果を残す。

しかし1962年FIFAワールドカップ・チリ大会は、1950年FIFAワールドカップ・ブラジル大会同様ワールドクラスの選手を多く抱えていたのにも関わらず、オーストリア・サッカー協会の財政問題から本大会の出場を断念した。

そのため第2黄金時代を支えてきたオーストリア代表選手は、FIFAワールドカップの晴れ舞台で活躍する場を奪われ、本大会出場辞退を決定したオーストリア・サッカー協会はメディアや国民から痛烈な批判を受けた。
また多くの選手がこのオーストリア・サッカー協会の決断以降引退したため、オーストリア代表の第2黄金時代は終わりを告げた。

第3黄金時代、そして1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会

第2黄金時代の終焉以降、オーストリア代表は当時ホームで無類の強さを誇っていたイングランドを「聖地ウェンブレー・スタジアム」で破るなどの活躍を時折見せるものの、ワールドクラスの選手の数は激減。1966年FIFAワールドカップ・イングランド大会では歴史上初となる予選敗退を喫し、ヨーロッパを代表するサッカー強国という地位を失う。

1974年は年間を通して1度も負けなかったのにも関わらず、予選での得失点差により1974年FIFAワールドカップ・西ドイツ本大会出場を果たせない等の不運もあり、1966年から1974年まで3大会連続でFIFAワールドカップ本大会出場を逃していた。

しかし1970年代後半になるとフリードリッヒ・コンシリア、ブルーノ・ペッツァイ、ハンス・クランクル、ヘリベルト・ヴェーバー、ヘルベルト・プロハスカ等の多くの有望な若手選手が育つようになり、オーストリアは第3黄金時代を迎えた。そして1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では予選を勝ち抜き、久々の本大会出場を果たした。

1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン本大会の第1グループリーグでは強国のブラジル、スペイン、スウェーデンと同グループに入ったが、ヘルムート・セネコヴィッチュ監督率いるオーストリアはこのグループを首位で突破し、ベスト8に進出する。
当時の大会規定では第2グループリーグの首位チームは直接決勝戦に進出することができたが、オーストリア代表は後に大会準優勝を果たすオランダ代表(当時のオランダ代表を率いたのはオーストリア出身のエルンスト・ハッペル監督)に敗れ決勝進出の夢ははかなく散った。

1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン本大会での「コルドバの奇跡」

しかし、オーストリアにとって消化試合となった1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン本大会での第2グループリーグ第3試合の西ドイツ戦は、現在まで語られている「コルドバの奇跡」として歴史に名を残すことになる。ちなみに「コルドバ」とはこの試合が行われた町の名前である。

前大会(1974年、西ドイツ大会)の王者であり、ゼップ・マイヤー、ベルティ・フォクツ、ライナー・ボンホフ、ベルンド・ヘルツェンバイン等多くのワールドカップ優勝経験者を揃え、その上マンフレッド・カルツやカールハインツ・ルンメニゲ、クラウス・フィッシャー、ハンズィ・ミュラー等、後にワールドクラスの選手になる有望な若手選手を多く抱えた西ドイツは、オーストリア戦で引き分ければ同大会の3位決定戦へ進出できる状況にあった。

しかし隣国西ドイツを相手にオーストリアの選手のモチベーションは非常に高く、ハンス・クランクルやフリードリッヒ・コンシリアの活躍もあり、オーストリアが前大会の王者であり圧倒的に有利と見られていた西ドイツを相手に見事勝利を収める(スコアは3‐2)。

この結果により西ドイツは第2グループリーグでの敗退が決定し、西ドイツを率いたヘルムート・シェーン代表監督はこの試合の直後辞任を表明。同じ飛行機でヨーロッパへの帰路についたオーストリアと西ドイツ代表の選手達は皆落胆していたが、少なくともオーストリアの選手からは前回のワールドカップの覇者西ドイツを破ったプライドと喜びが感じ取れた。

この試合が「コルドバの奇跡」として国民に広く知られるようになったのは、試合結果のみならず、今日では伝説となった実況の影響がある。

このオーストリア対西ドイツの試合を実況していたエディ・フィンガーは、試合当初は落ち着いた語り口と標準ドイツ語だったが、オーストリアの勝利が近くなるにつれ、抑えきれない感情から標準ドイツ語ではなく、ドイツ人にはなかなか理解しにくいオーストリア方言の言葉や言い回しを使うようになり、終いにはオーストリア代表の勝利を熱狂的に祝った。
この「オーストリア方言による熱狂的な実況」は、「コルドバからの伝説的な実況」として現在まで語り継がれている。そのため現在では当時まだ生まれていないオーストリア人でさえ「コルドバの奇跡」を知っており、戦後のオーストリア・サッカーのハイライトの1つとされている。

1982年FIFAワールドカップ・スペイン大会

「アルプスのベッケンバウアー」と呼ばれ、4年連続バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)で5位以内に入ったリベロのブルーノ・ペッツァイや、FCバルセロナで得点を量産しスペインリーグ得点王、そしてゴールデンブーツ(欧州年間最優秀得点王賞)を獲得したハンス・クランクル、セリエAの名門インテルの主力選手として活躍の場をイタリアに移していたヘルベルト・プロハスカなど多くの国際レベルの選手を抱えたオーストリア代表は、予選を無難に突破し1982年FIFAワールドカップ・スペイン本大会出場を決める。

本大会の第1グループリーグではアルジェリアとチリを相手に無失点で勝利を収め、1試合を残して第2グループリーグへの進出を難なく決める。しかし第3試合を消化試合とした西ドイツ戦でFIFAワールドカップの歴史に残る「ヒホンの無気力試合」が起きる(詳細は次の章の「1982年FIFAワールドカップ・スペイン大会での「ヒホンの無気力試合」を参照)。

この「ヒホンの無気力試合」によりオーストリアと西ドイツは大会の完全な嫌われ者になり、第2グループリーグ以降大会の観客は両チームに大ブーイングを浴びせ、オーストリア又は西ドイツと対戦する国はスペインの地で完全な「ホームゲーム」の雰囲気で試合を行うことができた。
最終的にオーストリアは惜しくもフランスに0‐1で敗れ、第2グループリーグで2位となり、ブラジルやイングランドと共に準決勝進出を果たせないまま大会を終えた。

目標としていたFIFAワールドカップ準決勝進出を果たせなかったオーストリア代表選手にしてみれば非常に悔いが残る結果となったが、開催国のスペインを始め、大会に参加した国々の多くのサポーターは「ヒホンの無気力試合」の影響からオーストリアの敗退を喜んだ。

1982年FIFAワールドカップ・スペイン大会での「ヒホンの無気力試合」

オーストリア代表は1982年FIFAワールドカップ・スペイン本大会の第1グループリーグでアルジェリアとチリを相手に無失点で勝利を収め、1試合を残して第2グループリーグへの進出を決める。しかし第3試合を消化試合としたオーストリアの対戦相手西ドイツは初戦のアルジェリア戦を落としており、オーストリア戦で勝利しなければ第2グループリーグへ進めない厳しい状況にあった。

また、他会場の試合は先に終了していた為、この後に「ヒホンの無気力試合」として有名になる西ドイツ対オーストリアの試合ではオーストリアが引き分けるか勝利すれば、オーストリアとアルジェリアが、西ドイツがオーストリアに3点差以上で勝利すれば西ドイツとアルジェリアが、そして西ドイツが1点差、もしくは2点差で勝利すればオーストリアと西ドイツが第2グループリーグへ進出できることが判明していた。

このような状況の中、試合開始。前半11分に西ドイツがオーストリアを相手に先制するが、上記にあるようにこのスコア(西ドイツの1‐0)で既に両チームが揃って第2グループリーグへ進出できることが確定していた為、それ以降は両チームとも試合時間が過ぎるのを待つかのように無難なボール回しや相手チームにとって危険性の無いロングボールの応酬、そして遠くからの無意味なGKへのバックパス等に徹し、共にさらなる得点を狙わなかった。

そのため、試合も西ドイツの1‐0で終了。結果的にオーストリアと西ドイツが第2グループリーグに進み、既に最終戦を終えていたアルジェリアが脱落することになる。アルジェリア、開催国のスペイン、そして各国のサポーターには、共にゲルマン民族でありドイツ語を母国語とする西ドイツとオーストリアの選手が試合結果をコントロールしたようにしか見えず、両国とも痛烈な批判を受ける。

この試合の会場がヒホンにあったため、この試合は「ヒホンの無気力試合」として後世にその不名誉な名を残すこととなる。FIFAとUEFAはこの試合の影響から1984年UEFAヨーロッパ選手権以降、グループリーグの最終戦は必ず同時刻に行うことを決定し、国際大会での開催方式の変更を行った。

ちなみに当時の試合に出場した両国代表選手の証言によって判明していることだが、選手同士で試合前にゲームスコアについて話し合いがあったわけではなく、前半11分に西ドイツが得点を決めた時点で、両チームのほぼ全選手がお互い言葉を交わさなくても「これ以上の得点が生まれなければ両チーム共に進める、第2グループリーグでの試合に備えて体力を温存しよう」と考えたと言われている。

実際に当時の試合についての様々な証言がある中で、最も知られているのは西ドイツ代表のパウル・ブライトナーが「お互い無理な攻撃は控えよう」とハーフタイムにオーストリアの主力選手数人に話したことと、いわゆる「空気を読めなかった」オーストリア代表のフォワード、ヴァルター・シャッハナーが積極的に得点を狙うと数人の西ドイツとオーストリアの選手に「それほど力を入れないよう」試合中に注意されたことである。

また、2006年になって当時西ドイツ代表の主力選手であったパウル・ブライトナーは、この事件について下記のように発言している。

「FIFAのルールの問題であり、一生に1回しか出場できないかもしれないFIFAワールドカップという国際大会で、選手達が自らにメリットがあるように行動をするのは仕方がないことだ。実際に通常の試合でもある一定の時間帯から試合を有利に進めているチームは結果が変わらないようにボールを巧みにまわし、試合をコントロールするようになるのは日常茶飯事であること。私達の場合はその試合をコントロールする、ということを通常より早い時間帯から始めただけだ。あくまで当時のFIFAのルールによってこのようなことが起きたので、選手に責任をなすりつけるのは間違っている」。

1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会、若手への期待、そしてボスマン判決

1982年FIFAワールドカップ・スペイン大会以降、ハンス・クランクルらに代表される長年に渡り国際レベルで活躍した主力選手が立て続けに引退し、若手主体の代表チームが形成される。しかし世代交代に失敗したオーストリアは、1986年FIFAワールドカップ・メキシコ本大会への出場を逃してしまう。厳しい批判を受ける代表監督が次々と代わり、代表チームも好結果を残せぬまま1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会へ向けての予選が始まる。

するとオーストリア・サッカー協会はそれまでオーストリアU21代表監督を務め、弱冠39歳であったヨーゼフ・ヒッケルスベルガーをA代表監督に抜擢。ゴールデンブーツを受賞した若き点取り屋のアントン・ポルスターや、オーストリア・ブンデスリーガでのデビューからまだ僅か3試合しか出場していなかったが後に「アルプスのマラドーナ」と呼ばれるようになるアンドレアス・ヘルツォークをA代表に抜擢するなど、ヒッケルスベルガーの思い切った起用が好結果を呼ぶようになり、若手主体の新興オーストリア代表への国民の期待が高まるようになる。

親善試合ではアルゼンチンと引き分け、オランダやスペインを相手に勝利を収め、当時ワールドクラスのチームであったソ連やトルコ、東ドイツ、アイスランドらと同組となったワールドカップ予選でも好結果を残し、見事本大会出場を決める。

イタリア、チェコスロバキア、そしてアメリカと同組に振り分けられた1990年FIFAワールドカップ・イタリア本大会の初戦ではイタリアと対戦。
ゼンガ、バレージ、ドナドーニ、マルディーニ、アンチェロッティ、ヴィアリ等ワールドクラスの選手が多く所属するチームを相手に互角の戦いを見せるが、当時はまだ無名で後にワールドカップ得点王に輝くスキラッチに決勝点を奪われ、0‐1で惜敗する。
また第2試合のチェコスロバキア戦(主力選手はカドレッツ、ハシェック等)でも、PKからの失点により再び0‐1で敗戦。第3試合のアメリカ戦(主力選手はメオラ、ラモス等)では内容でも相手チームを圧倒し勝利を収めるものの、グループリーグ敗退という結果で大会を終える。

結果は期待外れであったものの、若手主体のチームがFIFAワールドカップという国際的な舞台で貴重な経験を積むことができ、チームのプレーからも明るい将来性を感じ取ることができたため、オーストリア・サッカーの未来のためには重要な大会であったと評価され、代表チームの将来が期待された。

しかしヨーロッパ・サッカー界に衝撃を与えることになるボスマン判決は、ドイツやイタリア、スペインのリーグ等に比べ経済力に劣るオーストリアのサッカー界にとって死刑宣告と同じ意味を持ち、多くの名門クラブが破産。オーストリア・サッカー界全体に大きな波紋を起こし、オーストリア代表のレベルの低下を招く。

1998年FIFAワールドカップ・フランス大会、そして2002年と2006年

ヴォルフガング・ファイアージンガー、マリオ・ハース、イヴィツァ・ヴァスティッチ、ディートマー・キューバウアー等新たに台頭した選手が、既にベテランとなったアンドレアス・ヘルツォークやアントン・ポルスターと共にチームの中心となる。
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会への予選ではスウェーデンやスコットランドと同組になり、10試合で8勝1敗1分、17得点4失点の好結果を残し、首位で予選を突破、本大会出場を無難に果たす

しかし1998年FIFAワールドカップ・フランス本大会のグループリーグではカメルーンとチリと引き分け、優勝候補のイタリアに1‐2で惜しくも敗れた為、決勝トーナメント進出を果たせぬまま大会を終える。

2002年FIFAワールドカップ・韓国&日本大会では最終予選で一時的にトップを走るものの、後にワールドカップ本大会で3位という大成功を収めることになるトルコに最終戦で敗戦し、本大会への出場権を土壇場で逃す。

この時期になるとボスマン判決や育成システムの改革の遅れの影響もあり、代表で主力選手として活躍できる若手がなかなか育たなくなり、代表の世代交代が進まない状況に陥る。
それによりオーストリア代表は長年に渡り1998年FIFAワールドカップ・フランス大会に出場したメンバーに頼らざるを得なくなる。経験豊富なベテラン選手の活躍は評価されるものであったが、アンドレアス・イヴァンシッツらを除けば新たな若手の成長がなかなか見られず、「一昔前の強いA代表チームの復活の光明が見えない」(当時のオーストリアの新聞より)という状況であった。

その反動から2006年FIFAワールドカップ・ドイツ大会への出場権を逃したオーストリアは、開催国となった2008年UEFAヨーロッパ選手権・オーストリア&スイス大会に期待を託す。

2008年までのUEFAヨーロッパ選手権(EURO)との縁

1960年まで開催されていた前身のUEFAヨーロッパ・ネーションズカップでは優勝や準優勝を飾るなどコンスタントに優れた結果を残し、名実と共にヨーロッパの強国であることを証明していたものの、1960年以降開催されたUEFAヨーロッパ選手権にはなかなか縁がなかった。

1960年大会ではベスト8、1964年大会ではベスト16に進出したものの、以降は2000年のオランダ・ベルギー大会予選で得失点差で出場権を逃したのに代表されるように、本大会出場を惜しいところで逃し続けていた。

育成システムの改革の好成果、そして早すぎた2008年UEFAヨーロッパ選手権(EURO)オーストリア&スイス大会

21世紀に入ると多くの新たな動きが見られるようになり、オーストリア・サッカー界全体が活発化される(詳細は当ホームページの「ブンデスリーガの歴史」を参照)。
それまで遅れを取っていた育成に関しても、オーストリア・サッカー協会が全体的な見直し及び改革を実施。2008年UEFAヨーロッパ選手権(EURO)オーストリア&スイス本大会に向けて新たな育成プロジェクト「Challenge08」(チャレンジ08)が発表され、その結果各カテゴリーの代表チームがヨーロッパ選手権やワールドカップで好成績を残すようになる

例:

1997年UEFA U16ヨーロッパ選手権 準優勝
2003年UEFA U17 ヨーロッパ選手権 3位
2003年UEFA U19ヨーロッパ選手権 3位
2004年UEFA U17ヨーロッパ選手権 5位
2006年UEFA U19ヨーロッパ選手権 3位
2007年FIFA U20ワールドカップ 4位

これらの各カテゴリーでの好結果は、オーストリア・サッカー協会の育成改革が正しい方向性を持っていることを見事に証明した。
しかし台頭してきた若手選手にとって2008年のヨーロッパ選手権はまだ早すぎた、というのが実状であった。2003年や2006年のU19ヨーロッパ選手権、そして2007年のU20ワールドカップで好結果を残した若手選手達は、まだそれぞれの所属クラブのトップチームでの地位を築きかけている段階であった。
そのため、「地元開催のヨーロッパ選手権が4年後であれば!」という声が大半を占めていた。

しかしヒッケルスベルガー代表監督は「オーストリア・サッカーの将来のため」と既に実力をコンスタントに証明していたクリッチ、シーマー、ハース、ヴァイセンベルガー、イベルツベルガーなどベテラン選手の多くを地元開催のヨーロッパ選手権に招集せず、若手主体のチームで本大会に臨む

開催国であるために予選を免除されたオーストリアは2008年UEFAヨーロッパ選手権(EURO)オーストリア&スイス本大会で優勝候補のドイツ、クロアチア、そしてポーランドと同組になる。

クロアチア戦とポーランド戦では「オーストリアが勝利を収めなくてはならなかった試合内容」(現地サッカー専門誌)とオーストリア代表が対戦相手より優れたパフォーマンスを見せたものの、若手主体のチームらしく経験不足などもあり、優れた試合内容を勝点3に結び付けることができなかった。

最終的には3試合で1分2敗という残念な結果でチェコやスイス、ギリシャ同様本大会でのグループリーグ敗退が決定するが、優勝候補のドイツやクロアチアと同じグループに入りながらも3試合での失点は僅か3。
しかもそのうちの2失点が、バラックによるフリーキック(ドイツ戦、0-1)とモドリッチによるPK(クロアチア戦、0-1)を直接入れられたものであり、唯一の試合の流れからの失点となったポーランド戦での失点も、相手選手がオフサイドポジションから得点を決めているなど、完全な主審のミスジャッジから生まれたものであった(ポーランド戦、1-1)。テレビでも報道されたが、実際には完全なノーゴールであったことが証明されている。

しかも忘れてはならないのは同大会に出場した他のチームに比べオーストリアA代表は非常に若いチームであったこと。第3試合のドイツ戦では試合を終えた11人のうち2人を除けば全員が24歳以下という完全な若手主体のチームであった。

不運もあったが、全試合で大会前の評判を覆す優れた試合内容を見せた若きオーストリアA代表は本大会でも十分健闘したと言える。

2008年UEFAヨーロッパ選手権(EURO)オーストリア&スイス大会の評価

この大会でのオーストリア代表の評価は二分されている。

悲観的評価:

特にポーランド戦とクロアチア戦では決定的な得点チャンスを多く作り出したのにも関わらず、経験と決定力不足から僅か1点しか記録することが出来ず、「勝利を収めて当然であったクロアチア戦とポーランド戦」(オーストリアの日刊新聞)では、優れた試合内容を勝点3に結び付けることができなかった

これはトップレベルの国際試合では致命的な欠点であり、オーストリア代表のほぼ全選手がヨーロッパのブランドネーション(イングランド、ドイツ、イタリア、スペイン)で各クラブの主力選手として活躍をするようにならなければ、この欠点は解消できないものである。

オーストリア代表の強固な守備は国際大会でドイツやクロアチアなどの強豪チームと対戦しても十分通用することが証明されたが、多くの中盤選手は守備に専念し過ぎ、なかなか攻撃にまで手が回らないことが多かった。

しかし1対1の状況を個人の力で突破できる選手がコルクマツら一部の選手を除き比較的少ないことから、できる限り多くの数的有利の状況を作り出したいオーストリアにとって、このような状況は攻撃が力不足になる1つの要因である。この状況を解決するにはさらに優れた選手を育成する必要があるが、そのためにはまだまだ時間がかかる。

また同時にブンデスリーガでゴールを量産し、オーストリアで将来を最も期待されているフォワードであるマーク・ヤンコシュテファン・マイヤーホーファーを本大会直前にメンバーから外したヒッケルスベルガー代表監督は戦犯の1人である。

「オーストリアの真のフォワード陣の決定力を本大会で全世界にアピールすることができなかった」と書く一部のメディアの指摘通り、ヒッケルスベルガー代表監督は優れた決定力を証明しているヤンコとマイヤーホーファーの代わりに、豊富な運動量でチームの得点チャンス作りには貢献するが、得点能力が比較的低いフォワードであるキーナストやハルニックを優先したのは最大の失敗である。
「守備は国際レベルだが、攻撃は決定力不足であった」という本大会を振り返れば、ヤンコとマイヤーホーファーの「得点決定力」という武器自ら放棄したヒッケルスベルガー代表監督の責任を問わずにはいられない。


楽観的評価:

洗練され組織化されたオーストリア代表の強固な守備は、国際大会でドイツやクロアチアなどの強豪チームと対戦しても十分通用することが証明された。本大会での失点は、ポーランド戦での実際にはノーゴールであったオフサイドからの失点を除けば、PKとバラックに直接決められたFKからのものだけであり、ドイツやクロアチアといった世界でもトップレベルの強国を相手に試合の流れから全く失点を許さなかったチーム全体の守備高く評価できる。

またこのオーストリアA代表の「守備が攻撃的なモダンサッカーの土台」、「ピッチ上の全選手が積極的にチームの守備に貢献する」という高い守備意識に基づいた組織的守備そしてチームのメンタリティーは、各カテゴリーの代表チームやクラブチームにも素晴らしい方向性を示した。

たしかにクロアチア戦やポーランド戦に代表されるような優れた試合内容を勝点3に結び付けることができなかったが、特に完全に若手主体であった今大会のオーストリア代表がドイツやクロアチア、ポーランドを相手に数多くの得点チャンスを作り出したのも事実。特にポーランド戦やクロアチア戦では得点チャンス数では対戦相手を完全に上回っていた

積極的なボールがないところでの動きにより多くの数的有利の状況を作り出し、国際経験豊富なドイツやクロアチアの守備陣を相手に若手主体のオーストリアがこれだけ多くの得点チャンスを作り出したことは高く評価できることだ。

決定的な得点チャンスを外し続けた選手らはほぼ全員24歳以下の若手選手であることが証明しているように、オーストリア代表の決定力不足はあくまで「才能不足」ではなく「国際経験不足」からきているものであり、これらの若手選手が経験を積んでいけば解消されることである。

第3試合のドイツ戦では試合を終えた11人のうち2人を除けば全員が24歳以下という完全な若手主体のチームであった。これらの選手はUEFAヨーロッパ選手権という世界トップレベルの国際大会で貴重な経験を積むことができ、将来への投資になったことは間違いない。この平均年齢が24歳以下というオーストリアA代表チームがドイツやクロアチアなどの強国を相手に見せたパフォーマンスは高く評価するべきものであり、オーストリア国民に明るい代表の将来を見せてくれた。

若手選手の将来性を信じ、「オーストリア・サッカーの将来のため」と多くのベテラン選手を招集しなかったヒッケルスベルガー代表監督は、本大会前の親善試合でなかなか良い結果を残すことができず、自らが「メディア受けする発言が少ない少々地味な監督」であるため猛烈な批判を受けたが、本大会でのA代表のパフォーマンス、そしてチームとしてのまとまりからすれば、優れた心理マネジメントを見せたと言える。
自らの立場が危うくなりながらも根気よく若手選手を起用し続け、最終的には正念場となるヨーロッパ選手権の本大会で見事なチームパフォーマンスを見せたオーストリア代表を率いたヒッケルスベルガー代表監督は優れた仕事をしたと高く評価できる。