フォルカー・フィンケ
Volker Finke(1948.3.24.-)
オーストリア人の指導者ではありませんが、オーストリアとの関わりも深く、浦和レッズの監督に就任したので、特別コーナーとして紹介します!
特にドイツ語圏とフランス語圏で評価が高く、オーストリアA代表監督の候補にもなった、ドイツ出身のサッカー指導者。同時に元卓球指導者、元バレーボール指導者でもある。
社会学とスポーツ学の教師からプロのサッカー指導者になり、同時に卓球とバレーボールの指導者としても幾度となく昇格を繰り返し成功を収めたという異色の経歴を持つ。16年間SCフライブルクで監督を務め、ドイツ・プロサッカー界で監督としてのクラブ所属最長記録を保持している。
選手として
生まれ故郷の地元クラブTSVベーレンボルステル(TSV Berenborstel)でキャリアをスタート。その後はTSVハヴェルセ(TSV Havelse)、ハノーファーシャーSC 1893(Hannoverscher SC 1893)、TSVシュテーリンゲン(TSV Stelingen)など下位リーグのアマチュアクラブでプレーする。
監督として
SCフライブルク以前(1974年〜1990年)
1974年に選手としても所属し、当時ドイツ10部に所属していたTSVシュテーリンゲン(TSV Stelingen)で指導者としてのキャリアをスタートさせる。
フィンケ新監督の下クラブは歴史に残る好成績を残すようになり、10年間で5度の昇格を果たし、ドイツ5部まで押し上げる。
1986年には同じく古巣のTSVハヴェルセ(TSV Havelse)に監督として復帰。人口6万人未満の小さな街のセミプロチームを立て直し、1990年にはドイツ2部に昇格させる。
(余談だが同クラブはフィンケがクラブを去った後は徐々に降格を繰り返し、現在ではドイツ6部に所属している。)
1.SCノルダーシュテット(1.SC Norderstedt)で1年間指導をした後、1991年7月に当時ドイツ2部に所属していたSCフライブルク(SC Freiburg)の監督に就任する。
SCフライブルク時代(1991年〜2007年)
クラブの運営スタッフは僅か数人、試合当日にはフライブルクに住む年金生活者が無償で入場チケットを販売していた1980年代のSCフライブルクは押し寄せるサッカー界の近代化の波には乗れず、ドイツ2部に所属しながらもプロフェッショナルなクラブ運営ができない状況であった。
1980年代の10年間で15回監督が交代され、クラブ全体のプロ化どころかフィロソフィーさえ存在せず、近い将来3部もしくは4部以下のリーグに落ちるのは確実とされていた。
このような厳しい状況の中、フォルカー・フィンケはSCフライブルクからの監督就任オファーを受託し、クラブに新しい風を吹き込む。「ドイツで最もモダンなサッカー」と評価されたチーム戦術を武器にチーム力は飛躍的にアップし、就任2年目となる1993年には、クラブの歴史上初となるドイツ2部での優勝を果たし、ドイツ・ブンデスリーガへ昇格する。
1995年にはヴェルダー・ブレーメンやバイエルン・ミュンヘン、ボルシア・ドルトムントなどブンデスリーガの名門クラブを次々と破り、3位というクラブの歴史上最も優れた結果を残し、翌年には同じくクラブの歴史上初となるUEFAカップ本大会出場も果たすなど、ドイツ・ブンデスリーガでも旋風を巻き起こした。
クラブの予算はブンデスリーガの他クラブとは比べられないほど少なく、代表選手は1人も所属せず、トップチームの選手のうち数人はフライブルク大学在学中の大学生プレーヤーであるなど、ドイツ・サッカー界として見れば常識外れだらけのSCフライブルクの最大の武器は当時としては革命的と言われたモダン戦術をふんだんに取り入れたフィンケが志向するサッカー・スタイルであった。
マンマークとリベロの全盛であった時代にフィンケは「ドイツのプロサッカー界では初のこと」と言われた完全なゾーンディフェンスと前方からの積極的なプレッシング、ラインコントロールとオフサイドトラップなどを取り入れ、攻撃では豊富な運動量と高い技術を土台にショートパスをつなぎながらボールを前方に運び、サイドからのクロス攻撃ではなく、前方の空いたスペースにスルーパスを出し、相手GKとの1対1の状況をできる限り多く作り出すサッカーを志向する。
名門FCバイエルン・ミュンヘンを破った際にはFCバイエルンの主将ローター・マテウスに「SCフライブルクと対戦すると12人か13人の選手を相手にしているような錯覚を得る」とテレビインタビューで言わせるなど、SCフライブルクは優れた結果のみではなくピッチ上の優れたパフォーマンスで旋風を巻き起こす。
フィンケも自らテレビインタビューで「ドイツでありがちなサイドにボールを運び、そこからクロスを入れ、誰か背の高い選手が頭か胸か、場合によっては膝か尻でゴールを決める、という攻撃パターンを私は好まない。」と当時のドイツ・サッカーのスタイルの一部を否定。
「次世紀のモダンサッカーを実現できる監督」と高く評価され、同時にできる限り少ないタッチ数でショートパスをつないでいくSCフライブルクの選手達には「ブライスガウ地方のブラジル人」という愛称がつくようになる。
フィンケによるクラブ改革、ドイツを代表する模範的なクラブに成長
クラブのプロフェッショナル化を大きなビジョンとして掲げ、様々なプロジェクトを開始していったフィンケはSCフライブルクにとって不可欠な存在となる。
監督就任当初は主にドイツ2部やドイツ3部で埋もれている若手選手を発掘していたフィンケだが、1995年のボスマン判決以降は金銭的に恵まれていない同クラブでのドイツ国籍選手の獲得が難しくなる。また優れたマーチャンダイジングやスポンサー額などにより他クラブが年間予算を巨大化していったため、フィンケは街の人口や経済力など様々な背景から大々的な年間予算のアップを望めないSCフライブルクの対応策として:
1.)ドイツを代表する育成部門を作り上げ、優秀な若手選手を育てあげる。20代中頃でこれらの選手を他クラブに売って、獲得した移籍金をクラブの投資にあてる。
2.)他クラブがまだスカウティングを行っていない外国で選手を発掘し、「フライブルクが得意とする一定の国々でのネットワーク」を築き上げる。
3.)金銭的なリスクの高い選手獲得とは異なり、投資失敗の可能性がほぼ無いクラブ設備やスタジアム、トレーニング場などの充実に力を入れ、選手自らが「このクラブでプレーをしたい」と思う魅力溢れるクラブに成長させる。
という方針を打ち出し、全て数年以内で実行する。
1.)についてはフィンケ自らがコンセプト及びフィロソフィーの確定、指導者の人材確保などを行い、「フライブルガー・フースバルシューレ」(Freiburger Fussballschule、フライブルク・サッカー学校)に代表されるドイツを代表する育成部門を築き上げる。
2.)についてはチュニジア、マリに代表されるアフリカ各国や、レバノン、グルジアに代表される西・中央アジア各国など、それまでドイツ語圏のクラブがスカウティングを全く行っていなかった各国で優れたスカウティングシステムを作り上げ、ブラジルやアルゼンチン、チェコ、旧ユーゴスラビアの各国など、多くのクラブが選手獲得のためにスカウトを送り込んでいる国々とは別のルートを作り上げる。
3.)についてはフィンケの「クラブの投資はまず足(選手)より石(施設)に」という方針の下、スタジアムの近代化、トレーニングセンターの改善のみならず、年間予算の低い小クラブであるのにも関わらず最新の分析ソフトやスカウンティングのデータバンク導入などを行い、規模は小さいながらもドイツで最もモダンなクラブの1つと高く評価されるようになる。そのためSCフライブルクは「模範的なプロクラブ」として高く評価されるになり、同時にフィンケ自身も優れたクラブ経営者としても知られるようになる。
事実上のGM兼監督としてSCフライブルクを「田舎のアマチュアクラブ」から「ドイツを代表する模範的なプロクラブ」に育て上げたフィンケはクリストフ・ダウム同様ドイツで最も高く評価される指導者の一人となり、FCバイエルン・ミュンヘンやヴェルダー・ブレーメン、バイヤー・レヴァークーゼン、1.FCケルン、アルミニア・ビーレフェルトなど名門クラブから次々と監督就任オファーが舞い込むが、「SCフライブルクという長期的プロジェクトを完成させたい」と他クラブへの移籍を拒否し続けた。
フライブルクという元々地域人口や経済力が低いためスポンサーを獲得しにくい町を本拠地としていることから、SCフライブルクは毎年のようにリーグで最も年間予算が低いクラブであり続けた。
このような金銭的に厳しい状況であるのにも関わらず、フィンケの優れたクラブ&チームコンセプトが実を結び、幾度となく好結果を残し、UEFAカップ本大会でも2度3回戦まで進出する。
ブンデスリーガに初昇格を果たした1993年から2007年の間でドイツ・ブンデスリーガとドイツ2部の間を3回行き来するものの、フィンケへの評価は下がるどころか、コンスタントに上がり、1990年代後半からは常に次期ドイツ代表監督候補にも挙げられるようになる。
フィンケ勇退時の反対運動
14年間に渡りクラブの実権をほぼ完全にフィンケに任せていたシュトッカー会長やクラブ首脳陣とのトラブルが15年目あたりからちょくちょく起きるようになる。最終的には当初結果が思わしくなかった16年目のウィンターブレイク前に「シーズン終了後にフィンケを強制的に勇退させる」ことをクラブが発表。
サポーターのみならず多くの選手もこの決断に反発し、反対運動が起きる。チームは「反首脳陣」としてさらにまとまりを見せ、ウィンターブレイク後はリーグの歴史に残る好結果を収める。
しかし、首脳陣の決断は変わらず、2006-07年シーズン終了後にフィンケは勇退。16年間に渡る長期政権が終了する。“Wir sind Finke!“(訳:「我々はフィンケだ!」)というフィンケ勇退反対運動がフライブルクでのみならず、メディアを通してドイツの各地で起きるようになり、ドイツを代表するノーベル賞作家ギュンター・グラスがドイツ国営放送を通してフィンケを監督としてクラブに残すように訴えるなど多くの著名人がSCフライブルクの監督交代を反対する中、2007-08年シーズンよりインド系ドイツ国籍の若手監督、ロビン・ドゥットにバトンタッチされた。
余談だが、ドゥットは初シーズンからドイツ2部で5位と、フィンケが16年間に渡って残した結果より下回る成績でシーズンを終了したため、多くの批判を浴びた(フィンケの「最低」の成績はドイツ2部で4位、「最高」の成績はドイツ1部で3位)。「フィンケサッカー」から「ドゥットサッカー」への転換、及び戦術面での修正が行われる。そのため「ブライスガウ地方のブラジル人」という愛称は2007年以降「懐かしい死語」と言われるようになった。
フィンケにはVfBシュトゥットガルト(ドイツ)、アルミニア・ビーレフェルト(ドイツ)、FCバーゼル(スイス)、レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)などに代表される様々なクラブや、ガーナ代表、マリ代表、チュニジア代表、オーストリア代表、グルジア代表、コートジボワール代表などから代表監督就任オファーが舞い込むが、「ヨーロッパでの指揮には興味がない」とメディアで公言し、アフリカでの代表監督に就任し、2010年FIFAワールドカップ・南アフリカ大会出場を目指すことが確実視されていた。
しかし大方の予想に反し、2009年1月よりJ1・浦和レッドダイヤモンズの監督に就任することが2008年12月に埼玉スタジアム2002での記者会見で発表された。
人物・エピソード
a.) 幾度となくドイツやフランスサッカーコーチ連盟が主催している国際会議でスペシャルゲスト講師として招待され、主に「コンビネーションサッカー」などについてセミナーを行っている。
b.) フィンケの支持者には特に「インテリ層」が多いことで有名。ノーベル文学賞を受賞したギュンター・グラスやドイツ・サッカー協会会長のツヴァンツィガーなどがその代表格。
c.) 緑の党の支持者であり、SCフライブルクで監督を務めていた際にはクラブのサポーターと共に移民の受け入れサポートやアフリカ救援、外国人排除反対の活動など、政治的もしくは社会的な活動も行っていた。
d.) フィンケの意向によりドライザム・シュターディオンの拡大・修築工事の際にはスタジアムの屋根にソーラーエネルギー用のパネルが敷かれ、スタジアムで利用するほぼ全ての電気をソーラーエネルギーによって得ることができるようになった。また芝暖房もエコ・エネルギーが利用され、ドイツで最も環境に優しいスタジアムの1つに生まれ変わった。
e.) 1990年までは生まれ故郷のニーンブルク・ヴェーザーの高校「アルベルト・シュヴァイツァー・シューレ」で社会学とスポーツ学の教師として働いていた。
f.) 「あなたはドイツでも最高レベルの指導者を得られたと思う。しかしあなたの権力は明日から半減される、ということを理解した方が良い。」(1991年、フィンケについてのコメント、1.SCノルダーシュテットの会長がフィンケを監督に招聘したSCフライブルクの会長に対して)
g.) 「(クラブの)お金よりはコンセプト、ビッグネームよりはフィロソフィー」(2007年、どのようなクラブからのオファーならば受託するのか、という質問へのフィンケの答え、ドイツ国営放送にて)
h.) 1990年代前半、SCフライブルクを率いてドイツ・ブンデスリーガに昇格した際には「お金が支配するプロサッカー」や「サッカーの本質を捉えないテレビ番組」などをテレビや雑誌などを通して痛烈に批判。「プロサッカー業界の異端児」として有名になる。現在でもドイツのサッカー専門ディベート番組などでは最も評価の高い、しかし(同時にフィンケ自らがメディアでの露出にあまり好感を持っていないため)滅多に招待することができない人物として知られている。
i.) 「クラブの投資はまず足(選手)より石(施設)に」というドイツで有名な格言の生みの親。
j.) フィンケのコンセプトの下、SCフライブルクはフィンケ政権中に6500万ユーロ以上の金額を施設投資にあてている。クラブの規模からすれば破格的な金額である。
k.) 「ショートパスをベースとした攻撃サッカー」のフットボールが身上。堅守が売りで、カウンター頼みの退屈なサッカーと批判のあったSCフライブルクのスタイルを一転させ、ショートパスを多用し、流れるようなパスワークを展開しゴールを量産するスタイルを確立した手腕を称える声は多く、ドイツの他クラブにも多大な影響を与えた。
l.) 運動量が豊富で守備能力と意識の高い献身的なプレースタイルや、ショートパスを多用したビルドアップ能力に優れている選手を高く評価する。生粋のストライカーは滅多に起用せず、細かなパス回しとMFの走り込みを組み合わせた攻撃サッカーが身上。
m.) 2008年UEFAヨーロッパ選手権オーストリア・スイス大会ではスイス国営放送のコメンテーターとして活動していた。
獲得タイトル:
ドイツ・ブンデスリーガ2部 優勝&昇格:2回 (1993、2003)
ドイツ・ブンデスリーガ2部 準優勝&昇格:1回 (1998)
ドイツ3部以下での優勝&昇格:7回
卓球リーグ2部以下での昇格:5回
バレーボールリーグ2部以下での昇格:6回
参考資料:ZDF(ドイツ国営放送)、kicker(ドイツ・サッカー専門誌)、Deutsches Sportfernsehen(ドイツスポーツ放送局)、ドイツ語版wikipedia、フランス語版wikipedia。
写真提供:GEPA-Pictures
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