エドゥアルド・フリューヴィルト
Eduard Frühwirt (1908.11.17-1973.02.27)
様々な画期的な取り組みを行ったことにより「監督職の改革者であり、サッカー界の常識の破壊者でもある」と言われ、1950年代にオーストリア・ドイツの両国で大旋風を巻き起こした人物である。
選手としては成功せずプロ契約を得るに至らなかったものの、現役引退後は優れた指導者、そして心理マネージャーとしての才能を発揮。
当時としてはまだ珍しかった選手とのコミュニケーションを重視し、最新のスポーツ科学に基づいたトレーニングプランを作成し毎日のトレーニングに反映させ、声のなかなか届かない試合中には選手に小さなメモを渡して指示を出し、若手選手育成のコンセプトを作成するなど先進的な指導を行い、当時のサッカー界では最もモダンな指導者として知られていた。
また戦術的には当時オーストリアでは常識であった「ショートパスをつなぐ超攻撃サッカー」の将来性を疑問視し、ゾーンプレスやカバーリング、カウンター等を徹底させ、守備の戦術練習を導入。
攻撃重視であった当時の風潮に反し、攻撃と守備のバランスを説き、「監督業の革命児」と評価されるようになる。
1954年FIFAワールドカップ・スイス大会ではオーストリア代表のコーチに抜擢され、大会終了後にドイツの名門FCシャルケ04、そしてカールスルーエSCの監督に就任。
8年間でドイツ選手権(ブンデスリーガの前身)優勝1回、ドイツ・カップ準優勝2回、南ドイツ選手権優勝1回、西ドイツ選手権優勝1回と優れた実績を残す。
また本人の画期的な指導法や戦術はドイツのサッカー業界に多大な影響を与え、多くのドイツ人指導者の模範的な存在になる。その後はオーストリア・ブンデスリーガで優勝1回、準優勝1回、オーストリア・カップ優勝1回、準優勝1回の結果を残し、一時的にオーストリア代表監督にも就任している。
ドイツの選手が残した自伝での証言:
「フリューヴィルト監督は、既に有名になっている最新のスポーツ医学を反映させたトレーニングや「革命的」な戦術でだけではなく、やはり1人の人間として素晴らしかったから成功したのだと思う。
彼は選手を1人の人間として見てくれた。プライベートのことで何か問題が起きても、彼はいつも選手のことを考え選手の支えになってくれた。
トップチームの監督であったのにもかかわらず、ユースチームの選手とも当たり前のようにコミュニケーションを図り、若手選手の才能を伸ばすことにも力を注いだ。そして選手に対しては当時ありがちであった威厳を強調しながら偉そうに指示を出すのではなく、積極的な対話を図り選手を納得させてくれた。
このようなことは今では常識になりつつあるが、当時としては革新的なことだった。選手全員を1人の人間としてレスペクトしてくれる彼のためならば、チーム全員が火の中をも走っただろう。」
「彼ほど優れた心理マネージャーにあったことがない。ベテランをやる気にさせ、若い選手には自信を植え付けるモチベーションのマイスターだった。
多くの監督の下でプレーしてきたが、この監督のためならば平日でも夜の9時にはベッドに潜って週末の試合に備えたい、と思う監督だった。」