Andreas Herzog (1968.09.10-)
長年に渡りドイツ・ブンデスリーガを代表するMFとして活躍、バルセロナCFも獲得に動いたオーストリアを代表するトッププレーヤー。「アルプスのマラドーナ」の異名を取る。
1986年にプロ選手としてのキャリアをオーストリア・ブンデスリーガのSKラピード・ウィーンでスタート。1987年や1988年にはリーグ優勝やカップ優勝を経験するものの、まだ経験も乏しく、タイトル獲得には貢献できなかった。しかし徐々に頭角を現し、1989年からはレギュラーのゲームメーカーとして活躍するようになる。
1988年以降はタイトルには恵まれなかったものの、創造性溢れるハイレベルなプレーをコンスタントに見せ、足元の繊細な技術を土台とした高い得点能力と抜群のパスセンスで絶大な存在感を発揮する。
国際レベルのゲームメーカーに成長したヘルツォークには1990年頃よりヨーロッパのブランドネーション各国から多くのオファーが殺到。
1992年にドイツ・ブンデスリーガの名門ヴェルダー・ブレーメンへ移籍する。オットー・レーハーゲル監督の下、初年度からレギュラーの座を確保し、ドイツ・ブンデスリーガ優勝やドイツ・カップ優勝を果たす。
ドイツの大衆紙「ビルト」に「ヴェルダー・ブレーメンは「カイザー」(「皇帝」、ドイツサッカー界ではベッケンバウアーのことを指す)を探して、「ヘルツォーク」(ドイツ語で「公爵」の意味)を見つけた」と記載され、将来が最も楽しみな選手の1人と紹介された。
以降もドイツでは長年に渡りブンデスリーガを代表するMFとして活躍、「アルプスのマラドーナ」の異名を取る。
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995年にはリーグ1の名門FCバイエルン・ミュンヘンへ移籍、UEFAカップ優勝に貢献するものの、クラブとは相性が合わず1年後には再びヴェルダー・ブレーメンに復帰する。1999年には再びドイツ・カップで優勝。ドイツ・ブンデスリーガでは264試合に出場し、60得点を記録する。
2002年に古巣のSKラピード・ウィーンに復帰。2004年にはメジャーリーグサッカー(MLS)のロサンゼルス・ギャラクシーでプレーし、引退を表明する。
ヘルツォークはヴェルダー・ブレーメンがクラブ創立から現在に至るまで獲得したタイトルの約半数に関わっており、ブレーメンにとって彼がどれだけ大きな存在かが覗える。
オーストリア最優秀選手に2回選出されたヘルツォークはオーストリアA代表でも長年に渡り不動のゲームメーカーとしてプレー。オーストリア代表最多出場記録となる103試合に出場し、26得点を記録している。
1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会と1998年FIFAワールドカップ・フランス大会にも出場している。
引退後はオーストリアサッカー協会大使として2008年UEFAヨーロッパ選手権オーストリア・スイス大会のPR活動をしていたが、2005年よりA代表チームのチームマネージャーに、2008年よりアシスタントコーチに就任している。