ルドルフ・「ルディ」・ヒデン
Rudolf „Rudi“ Hiden(1909.03.09-1973.09.11)
既に伝説となった「ヴンダーチーム」の守護神として絶大の人気を誇った「天才GK」。
16歳の若さでトップチームデビューを果たし、優れた技術と反射神経、ティーンエイジャーとは思えない戦術眼や判断力などから「天才GK」の異名を取る。
オーストリアでは主に当時ブンデスリーガに属していたウィーンACでプレー。ミトローパ・カップ準優勝(決勝ではオーストリア勢の対戦になり敗戦)やオーストリア・カップ優勝に貢献する。
1933年から1940年まではフランス・リーグアンの名門RCパリ(現在のラシン・クラブ・デ・フランス)でプレー。チームの守護神としてリーグ優勝1回、カップ優勝3回に貢献する。
1937年にはフランス国籍を取得、1試合のみフランス代表選手として国際試合に出場し、ポルトガルを3‐2で破っている。
ちなみに1940年代の前半にはナチス・ドイツから逃れてきた多くのオーストリア人選手がフランス国籍を取得しており、このフランス対ポルトガルの試合でも新たにフランス国籍を取得したオーストリア人が3人先発出場を果たしている。
オーストリア代表チームでは1928年から1933年までプレー。フーゴ・マイスル監督の下、ドイツやフランス、イタリア、ハンガリー、スコットランド、ベルギーを相手に力の差を見せつけ、連続して大勝した「ヴンダーチーム」の守護神としてオーストリア代表の第1黄金時代の立役者となる。
しかしフランス移籍後は「ヨーロッパトップレベルの母国のリーグから離れた為」代表に招集されなくなる。そのため代表キャップは僅か20試合と少ない。
チームきっての美男、お祭り好きな性格、そしてGKという花形のポジションも手伝い、特に女性ファンの間で人気が非常に高かった。また自らもオーストリアとフランスの上流社交界で派手な人生を送るようになる。
現役引退後はパリで豪華なバーを運営したり、オーストリアで湖畔ホテルを経営したりするが、全て失敗に終わり、全財産を失う。一時はサーカスでアルバイトをしなければ生計を立てられないほどになっていた。
そのため指導者としてのキャリアをスタートし、RCパリ(現在のラシン・クラブ・デ・フランス)やトルコ代表を率いた後、メシーナやパレルモ等イタリアのクラブでも監督を歴任したが、選手時代のような成功を飾ることはできなかった。
1973年に亡くなるが、自己破産したスター選手の葬儀の費用は当時オーストリア首相であったブルーノ・クライスキーが持ち、未亡人となったヒデンの妻にはフランス出身であったのにもかかわらず、オーストリア国家特別栄誉年金が支給されることになった。