SK ラピード・ウィーン (SK Rapid Wien)
ドイツ語表記 |
SK Rapid Wien
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日本語表記 |
SKラピード・ウィーン
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創設年 |
1899年
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ホームタウン |
ウィーン州 ウィーン
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スタジアム |
ゲルハルド・ハナッピ・シュターディオン
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公式サイト |
SKラピード・ウィーン(Sportklub Rapid Wien)は、オーストリア・ウィーンのサッカークラブチーム。
1899年に創設され、20世紀の間に30回もの国内リーグ優勝を成し遂げた強豪クラブであるが、そのうちの約半分は第2次世界大戦前の優勝である。
クラブ設立と第1黄金時代
1898年に「1.ウィーン労働者FC」(1. Wiener Arbeiter FC)として設立された。当時はハプスブルク帝国陸軍の敷地内にあったサッカー場で練習が行われていた。しかしクラブ設立以降19試合で1勝18敗、得失点差は13-107と悲惨な結果を残したため、翌年の1899年にクラブ名は「SKラピード・ウィーン」に変更され、新たなスタートを切る。そのため現在では1899年1月8日が正式なクラブ設立日となっている。
1911年にオーストリア・ブンデスリーガが設立されると、ディオニーズ・ショーネッカーの下、1930年までリーグ優勝10回、UEFAチャンピオンズリーグの前身となるミトローパ・カップで優勝1回、準優勝2回を果たすなどクラブの第1黄金時代が訪れる。
また、定期的に行われていた国際親善試合ではオランダの名門アヤックス・アムステルダムを16‐2で破るなど各国の名門クラブを相手に好成績を残し、当時ヨーロッパ最高峰と評価されたオーストリア・ブンデスリーガの実力を証明する。
ナチス・ドイツ時代 オーストリア・ブンデスリーガでの苦戦とドイツ選手権での優勝
1930年代になるとヴィエンナ、アドミラ・ウィーン、FKアウストリア・ウィーンなど他のクラブが台頭し、タイトルから遠ざかってしまう。しかし1939年にオーストリアがナチス・ドイツ帝国に併合されてからはドイツ選手権とドイツ・カップで優勝を果たし、ナチス・ドイツ帝国内で圧倒的な強さを誇る。ちなみにこの成功によって、SKラピード・ウィーンは今日まで唯一ドイツ領土外のチームとしてドイツ国内のタイトルを総なめにしたチームとなっている。
戦後、そしてヨーロッパカップでの成功
1949年にはクラブ設立50周年記念として多くの国際遠征が組まれる。特にブラジル遠征では、1年以上ブラジル選手権で無敗を誇り、ブラジル最強チームとして高い評価を得ていたアトレティコ・パラナエンセをアウェーのマラカナンスタジアムで7‐2のスコアで下すなど優れた結果を残し、当時のオーストリア・ブンデスリーガのレベルの高さを国際試合でも証明する。
1951年、UEFAチャンピオンズリーグの前身であるミトローパ・カップでは準決勝でイタリアの名門ラツィオを5‐0で破るなど好成績を収め、決勝に進出。オーストリア勢同士の対戦となった決勝戦では3‐2のスコアでヴァッカーを破り、見事優勝を果たす。
イングランド国内リーグ優勝を決めたばかりのアーセナルFCを6‐1で破るなど国際試合でも好成績を残すが、オーストリア・ブンデスリーガでは、UEFAチャンピオンズカップでユヴェントスを7‐0で破ったヴィーナー・スポーツクラブに代表されるような強力なライバルが多かったこともあり、思うようにタイトルを集めることはできなかった。
しかしUEFAチャンピオンズカップではスペインの名門レアル・マドリード(3‐1)やイタリアのACミラン(5‐2)、オランダのPSVアイントホーフェン(6‐1)を破るなど好成績を収め、準決勝進出などを果たす。
14年間に渡る長い低迷期
1960年代後半にはオーストリア・ブンデスリーガでの優勝のみならず、UEFAカップウィナーズカップでは準々決勝進出を果たし、UEFAチャンピオンズカップでは同大会の最多優勝チームであるスペインの名門レアル・マドリードを破り、同クラブを大会敗退に追いやるなど見事な結果を残すものの、1968年からはFCヴァッカー・インスブルックの黄金期と重なったこともあり、14年に渡りリーグ戦での優勝を逃す。
しかし1970年代後半にはゴールデンブーツ(ヨーロッパ最優秀得点王賞)を獲得し、後にスペインの名門バルセロナCFのエースストライカーとしてスペイン・プリメーラ・ディビシオンの得点王に輝くハンス・クランクルを輩出するなど嬉しいニュースもあった。
クラブ破産の危機と2度のヨーロッパカップ準優勝
1980年代にはオーストリア国内でのタイトルのみならず、UEFAカップウィナーズカップでベジクタシュ・イスタンブールやセルティック・グラスゴー、ディナモ・モスクワなどを次々と破り準優勝を果たす(1982年)など優れた結果を残す。
しかし人件費が嵩んだことから経営危機に陥り、1980年代後半からは幾度となくクラブ破産の危機を迎えるようになる。特に1994年には破産がほぼ決定的となったが、破産寸前に政府からの圧力もありオーストリアの大手銀行バンク・アウストリア(Bank Austria)がクラブを救済する。
ちなみに同クラブの危機に「サッカーに無知な政治家」は、同クラブの最大のライバルであるFKアウストリア・ウィーンとの合併を強く望んだが、両クラブのサポーターの大反対により、この「政治家による屈辱的な合併政策」は失敗に終わっている。
このような財政的に難しい状況からSKラピード・ウィーンは多くの主力選手をドイツ・ブンデスリーガやスペイン・プリメーラ・ディビシオンのクラブに放出するが、1996年にはUEFAカップウィナーズカップでポルトガルのスポルティング、ロシアのディナモ・モスクワ、オランダのフェイエノールトなどを破り決勝進出。フランスの名門パリ・サンジェルマンを相手に0‐1で敗戦を喫するものの、ヨーロッパカップでの準優勝という好成績を残す。
他クラブの台頭による低迷期とクラブ方針の転換
このようなヨーロッパカップでの好成績から、オーストリア・ブンデスリーガでも圧倒的な強さを誇るだろうと思われたが、SVアウストリア・ザルツブルク、SKシュトゥルム・グラーツ、FCチロル(現FCヴァッカー・インスブルック)の黄金時代が次々と訪れたこともあり、オーストリア国内では長い期間タイトルから遠ざかる。
2001-02年シーズンには新監督に就任した「ドイツの闘将」ローター・マテウスの下、歴史上最低のランクとなる8位になるなど、なかなか低迷脱出の機会を得ることができずにいた。
2005年には後にオーストリア代表監督に就任するヨーゼフ・ヒッケルスベルガー監督の下で10年ぶりとなるブンデスリーガ優勝を果たしたが、クラブは方針転換を決定。
アルフレッド・ヒョルトナーゲル新スポーツディレクターの下、高額なベテラン選手主体のチームを改革し、オーストリア人の若手主体のチームを作り上げる。2007-08年シーズンにはこの若手主体のチームが、柱となる数少ないベテランとうまく融合し、クラブの歴史上32度目となるオーストリア・ブンデスリーガでの優勝を決める。
またクラブの方針としては、積極的にオーストリアの優れた若手選手にブンデスリーガでプレーをする機会を与え、ドイツなどヨーロッパのブランドネーションからオファーがあった際には、移籍金獲得のため積極的に放出する方針をとっている。その代表格がSKラピード・ウィーンでオーストリア代表選手にまで成長しドイツの名門アイントラハト・フランクフルトに移籍したコルクマツである。
現在ではオーストリア・ブンデスリーガでリーグ最多予算を持つレッドブル・ザルツブルクの対抗馬として優勝争いをしながら、同時にカフラックやホッファー、ドーバー、マイヤーホーファーに代表されるような多くのオーストリア人若手選手を輩出している。
タイトル
国内タイトル
・オーストリア・ブンデスリーガ優勝:32回
(1912, 1913, 1916, 1917, 1919, 1920, 1921, 1923, 1929, 1930, 1935, 1938, 1940, 1941, 1946, 1948, 1951, 1952, 1954, 1956, 1957, 1960, 1964, 1967, 1968, 1982, 1983, 1987, 1988, 1996, 2005, 2008)
・オーストリア・カップ優勝:14回
(1919, 1920, 1927, 1946, 1961, 1968, 1969, 1972, 1976, 1983, 1984, 1985, 1987, 1995)
・オーストリア・スーパーカップ優勝:3回 (1986, 1987, 1988)
・ドイツ選手権優勝:1回 (1941)
・ドイツカップ戦優勝:1回 (1938)
国際タイトル
・ミトローパ・カップ優勝:2回 (1930, 1951)
・UEFAカップウィナーズカップ準優勝:2回 (1985, 1996)
・UEFAチャンピオンズカップ準決勝進出:1回 (1961)
・UEFAインタートトカップ優勝:3回 (1992, 1993, 2007)
写真提供:Pressestelle SK Rapid
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