SK シュトゥルム・グラーツ (SK Sturm Graz)
ドイツ語表記 |
SK Sturm Graz
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日本語表記 |
SKシュトゥルム・グラーツ
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創設年 |
1909年
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ホームタウン |
シュタイヤーマルク州 グラーツ
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スタジアム |
グラーツ・リーベナウ・シュターディオン
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公式サイト |
SKシュトゥルム・グラーツ(SK Sturm Graz)は、オーストリア・シュタイヤーマルク州の州都グラーツを本拠地とするサッカークラブ。日本では、1990年代後半より、後に日本代表監督となるイビチャ・オシム監督の下で躍進し、UEFAチャンピオンズリーグ本大会で旋風を巻き起こしたことで知られている。
スロベニアとの国境まで車で僅か30分という地理的条件から伝統的に多くの旧ユーゴスラビア出身選手が所属するクラブとして知られている。
特に20世紀後半は、多くの旧ユーゴスラビア出身の選手にとって地理的に「最も祖国に近い西ヨーロッパのプロクラブ」として移籍しやすいクラブであった。
また21世紀に入ってからはオーストリア人選手の育成に力を注ぐようになり、ライトゲープ、ゾイメル、ポガテッツ、ゲルサリウ、プリョードル等現A代表選手を多く生み出している。
クラブ創設~1980年代
クラブが創設されたのは1909年。1949年にはオーストリア・ブンデスリーガへの昇格、1976年にはUEFAカップウィナーズカップ準々決勝進出、1984年にはUEFAカップ準々決勝進出を果たすものの、オーストリア国内では長年に渡りタイトルを獲得できず、オーストリア・ブンデスリーガでSKラピード・ウィーン、FKアウストリア・ウィーン、FCヴァッカー・インスブルックの3クラブが多くのタイトルを獲得する中、SKシュトゥルム・グラーツは中位を定位置としているクラブであった。
カルトニッグとオシムによる改革
しかし、深刻な財政難に見舞われた1990年代前半にハンネス・カルトニッグがクラブの新会長に就任すると状況が一変する。様々な事業で成功をもたらし、「地元出身のセルフメード億万長者」であったカルトニッグは大胆な改革を実施。その一環としてクラブの新監督にボスニア出身のイヴィツァ・オシムが1994年に就任した。
財政的な理由から若手中心のチームでスタートしたものの、リーグ優勝のためには経験豊富なベテランの力が欠かせないという認識から、1996年頃からはイタリア代表のジュゼッペ・ジャンニ、ドイツ代表のフランコ・フォーダ、セルビア出身のランコ・ポポヴィッチ、ミシャ・ペトロヴィッチなどに代表される多くのベテラン選手を積極的に獲得するようになり、オシムの手腕の下、魅力溢れる攻撃的サッカーを見せる若手選手とベテラン選手が調和したチームが出来上がる。
この攻撃的なチームスタイルを象徴していたのは、マリオ・ハース、ハンネス・ラインマイアー、そしてオシムの秘蔵っ子として知られているイヴィツァ・ヴァスティッチの3人からなり、ゴールを量産した「マジカル・トライアングル」であった。
このように若手、ベテラン問わず多くの実力選手を獲得できたのは既にオーストリア・サッカー界のカリスマ的な存在となっていたカルトニッグ会長の影響が大きい。
会長自らが多くの新スポンサー獲得に成功し、1990年代後半にはSKシュトゥルム・グラーツはオーストリア・サッカー界で最も年間予算の大きい、そして最も高い給料が選手に支払われるクラブとなっていた。
カルトニッグ会長とオシム監督のこの実績はクラブ成功の模範的な2人3脚と言われるようになり、高く評価される。
黄金時代
「カルトニッグ&オシムの新体制」の下、SKシュトゥルム・グラーツはクラブ初のタイトルとなる1996年のオーストリア・カップ優勝を皮切りにオーストリア・ブンデスリーガ優勝2回、オーストリア・カップ優勝2回、オーストリア・スーパーカップ優勝3回を果たし、「SKシュトゥルム・グラーツの黄金時代」を築き上げる。
また、3年連続UEFAチャンピオンズリーグ本大会にも進出。2000-01年シーズンでは(1999-2000年シーズン、オーストリア・ブンデスリーガで準優勝したため参加した)最終予選でオランダの名門フェイエノールトを下し、本大会のグループリーグではグラスゴー・レンジャーズ、ガラタサライ、ASモナコと各国の強豪と同グループになるものの、見事首位通過を果たしている。
オシム退団
しかし1999年以降3年連続でタイトルを逃すとそれまで2人3脚で協力し合ってきたカルトニッグとオシムの信頼関係が崩壊、カルトニッグはメディアを通してオシムを批判するようになる。
代表的な発言として「うちの監督(オシム)はブラジルの高級ステーキを提供されてもいつもユーゴスラビアのチェバプチチ(ユーゴスラビアのソーセージ)ばかりを選ぶからな!」が知られている。
このような状況から2002年にはそれまで8年に渡り監督を務めたオシムがクラブを退団する(翌年にはジェフユナイテッド市原(当時)の監督に就任した)。
クラブ存続の危機~破産申請~再スタート
その後、毎年のように順位を落とすようになり、残留争いの常連となる。またオシム時代(特に1996-97年シーズンから)、念願のUEFAチャンピオンズリーグ本大会での好結果を残すために大規模なチーム補強が行われ、数々の代表選手を獲得したことのツケとして、膨大な人件費を抱えることとなりクラブの存在自体が危うくなる。
2003年には後にサンフレッチェ広島を率いることになるミシャ・ペトロヴィッチが監督に就任し、高年俸契約のベテランや代表選手をほぼ全員売却、完全な若手主体のチームでリーグに望み、2年連続オーストリア・ブンデスリーガでの残留を果たす。
しかし財政面での問題は解決されず、2006年10月23日には負債860万ユーロで破産申請をせざるを得なかった。
カルトニッグ会長は辞任に追い込まれ、新経営陣の下でクラブは再スタートを切る。シュタイヤーマルク州や地元の企業がクラブに投資したことにより、財政上のトラブルからブンデスリーガ(運営機関)から受けた勝点剥奪を乗り越え、オーストリア・ブンデスリーガ残留を果たしている。
現在はオーストリア出身の若手選手を多く育て他のクラブに売却する育成クラブとしてオーストリアでの地位を固めている。
タイトル
国内タイトル
・オーストリア・ブンデスリーガ優勝:2回 (1998年、1999年)
・オーストリア・ブンデスリーガ準優勝:5回 (1981年、1995年、1996年、2000年、2002年)
・オーストリア・カップ優勝:3回 (1996年、1997年、1999年)
・オーストリア・カップ準優勝:4回 (1948年、1975年、1998年、2002年)
・オーストリア・スーパーカップ優勝:3回 (1996年、1998年、1999年)
・オーストリア・スーパーカップ準優勝:2回 (1997年、2002年)
国際タイトル
・UEFAカップウィナーズカップ準々決勝進出:1回 (1976年)
・UEFAカップ準々決勝進出:1回 (1984年)
写真提供:GEPA-Pictures